日独伊三国同盟 日独伊三国同盟の締結は日本にとって何かメ

日独伊三国同盟 日独伊三国同盟の締結は日本にとって何かメ。三国同盟は元々切実性に迫られてというところがありました。日独伊三国同盟の締結は日本にとって何かメリットはあったのでしょうか 日本にとっては日独伊三国同盟の締結は米英を牽制するためでしたが,実際は米英から一層敵対されてしまい,ドイツやイタリアとは距離があまりも遠すぎて物質的な援助も期待出来ず,日本にとって結果的には損ばかりだった気がします ただ強いて言えば仏印進駐にあたってフランスを抑えているナチスが仏印総督に圧力を掛けてくれたくらいだと思います 日独伊三国同盟。これは。1936年11月に締結された。日独防共協定翌年イタリアが参加し
日独伊防共協定での枢軸国三国の反ソ連。反コミンテルン日本側は第2次
近衛文麿内閣の外相松岡洋右が推進役であったが。日本がドイツ?イタリアの
ファシズム国家と軍事同盟を締結することは。アメリカと結果において近衛だ
のなんか。気の毒だけれども。国民から八つ裂きにされるようなことになりゃ
せんか。

『日独伊三国同盟』はなぜ締結されたのか。日独伊三国同盟とは。昭和年年月日に日本。ドイツ。イタリアの
三国で締結された軍事同盟のことです。日本は昭和年の満州事変
以降。ソ連との武力衝突の可能性があったことから。ソ連の圧倒的な軍事力に
対抗ていた日本にとって。共産主義国家のソ連とドイツが手を結んだ事実は。
衝撃的な出来事として記憶されました。日比谷焼き打ち事件とは何か?日本はなぜ「日独伊三国同盟」を選択したのか。なんならドイツと結んでいるソ連も含めた4国でいこう」と考え。日独伊三国
同盟へと向かっていきます。こうして1940年昭和159月に。日独伊
三国同盟を締結する運びとなりました。日本は近衛の2回目の声明にあった
東亜新秩序から発展して。「大東亜共栄圏」の建設を目指して南方に出ていく
ことに

日独伊三国同盟締結。フランス は。このときドイツに降伏していて。ヴィシーにできていた傀儡か
いらい政権に通告したうえでの進駐でしたが。それでも。フランス駐留軍との間
に戦闘があったそうです。でも。兵力に勝る日本軍はここを占領しました。

三国同盟は元々切実性に迫られてというところがありました。 日中戦争が近衛声明によって収束の目途が立たずに泥沼化すると、陸軍、特に軍令担当の参謀本部と前線指揮官は困惑と狼狽に叩き込まれます。 占領地を広げてもメリットはなく、全土占領をしての全面降伏など現実的ではないと分かっていたからです。時々「一撃論」なるものをそう思いこんでいるどうしようもない例が散見されますが、自意識過剰なチキンに限らず専門書読破自慢ほど東条が主導するまで愚かではない、というか実利をより重視していました。 陸軍は私的外交なども模索しますが、その方策の一環として狙いをつけたのが、中国国民党からのドイツの離間です。ドイツは国民党に多大な支援をしており、そもそも日中戦争の開戦に至ったのも、蒋介石がその支援で対日戦争に自信をつけて挑んだ結果でした。 しかも、三国同盟はドイツ側からも誘いがありました。対ソ、対英牽制に役に立つと、特に極東外交で主導権を奪おうとしていた一部陸軍人やリッベントロップが熱烈に勧誘します。 対ソ、対英牽制は日本にとっても同じく魅力的でした。 そこへ来てヒトラーはフランスに対して鮮やかな勝利をします。これは現代では軽んじられていますが、第一次大戦で4年の歳月と数百万の犠牲を出してもパリに到達できなかったのに、百日ほどで百分の一にも満たない犠牲でやってのけたのですから世界に衝撃を与えました。この時にイタリアが火事場泥棒的参戦をしますが、これを見て近衛、松岡、陸軍参謀次長だった沢田などが「上手いことやるものだ」と考えたわけです。 ですから、彼らからすれば三国同盟はメリットだらけに見えたのです。 一方で三国同盟は英米との対立を悪化させる恐れがあります。ところが、近衛、松岡は後世の愚かな歴史家、あるいは最近でもよくいる「日米安保を見直して、中国とも等距離外交をせよ」という左派系政治家と同じくらい安全保障について音痴かつ無知で、安全保障の枠組みを変える同盟相手や同盟段階を変えることが、いかに世界に激震を及ぼすか無頓着でした。 そして、陸軍もまたローカル視点かつ、海軍担当だから、でそうした問題は鈍かったのです。 彼らにしてみれば「三国同盟を結んだからって、英米と戦争になる=”戦争を仕掛けられるわけがないし、そっちの問題は海軍担当だ」で片付いてしまうのです。このセクショナリズムと、近衛の無責任は、日米開戦まで続きます。 また海軍にもこうしたローカル視点、欧州とアジアは別世界的な意識や反英米、親独的傾向を持つ人間は少なくなく、昭和十五年時点で昭和天皇の意思をあくまで尊重して三国同盟に反対していた米内内閣に批判的な人間が増えていきました。その一人が、実は戦後に三国同盟に反対だった派扱いされる海相吉田善吾で、彼も米内首相への不信任の発言をしています。 ちなみに、米内内閣は陸軍の倒閣運動で畑陸相が辞職して倒れた、とされていますが、真相は、この通説が出たらめに近いほどに、異なります。 辞表提出の経緯もさることながら、当初は米内と畑の間で「辞表を出さざるを得ないが、拒絶する」と取り決められていたのです。ところが、いざ畑が辞表を提出すると米内はあっさり総辞職してしまい、畑は驚きました。東京裁判で米内は辞表で辞任した事実を否定する離れ業をやって恍けてまで畑を庇ってますが、当の畑は一連のことについて「米内もまた圧力を受けていたのではないか」と振り返っています。 結果からすれば想像しがたいかもしれませんが、三国同盟のメリットを考える上で、「”米国と戦争になる”=”米国相手に戦争を仕掛ける”事態はない」との前提で考えてみてください。 当時の東アジアはほとんどが欧米の植民地でした。ところが、宗主国のフランス、オランダはドイツに屈服、イギリスも追い込まれていました。そして、極東において日本の軍事力は圧倒的でした。懸念は日中戦争の泥沼化とソ連の不気味な存在ですが、ドイツを同盟国とすればどちらにも役に立ちます。少なくない人が世界は分割される、とも考えており、しかも当時のアメリカは「ヒステリーおばさんのようにあれこれ口を出したがるが、本質は孤立主義」でした。 一方で三国同盟はアメリカに譲歩を引き出す外交策と見る向きもありました。木戸内府などがその魂胆があったのですが、難度があるように見えるこの賭けは実は成功しかけます。それが昭和十六年4月に生じた日米了解案で、これが現実となれば、ビスマルク的手法としても高い評価となった可能性があります。 ところが、よりにもよって、この時の外相が、外務省出身でありながら外交的駆け引きと間合いを理解しない松岡だったこと、しかも、彼は訪欧から帰還直後でヒトラー、スターリンという二大巨頭と渡りあって意気揚々としてユーラシア同盟に夢中になっていたこと、さらに日米了解案が”外交に専権事項があるのに”自分が関与してないことから旋毛をまげてしまい、挙句に職務放棄までして潰してしまいます。 これに加えて三国同盟の成立と米国の艦隊増強計画から対米戦争に邁進しだした海軍の押切もあって、日本は実践力においてはまるで役に立たない三国同盟陣営=枢軸国側として、参戦する羽目になり、考えられたメリット以上のデメリットを背負うことになったのです。日独伊三国同盟の締結は、軍部が自分たちの既得権益を守るためやったことで、大正以降軍部を抑えていた明治以来の元老が次々といなくなり昭和に入りその歯止めが利かなくなり、日本軍が不必要な戦争を仕掛けて行ったため日本に対する国際的非難は大きくなった。1940年に入り陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。当時の米内光政首相が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」としてこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣?畑俊六を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣は半年で総辞職に追い込まれた。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。1940年10月以降は大政翼賛会政治へ移行し、近衛文麿内閣の松岡洋右外相は軍部の使い走りとなります。明治憲法の最大の欠陥は文民統制シビリアン?コントロールがなかったことで、文民統制があれば日本は破滅的な戦争への道を歩むこともなかったと思います。松岡外相はソ連を加えて、日独伊ソの同盟によって、連合国に対抗する構想であったのです。ドイツが独ソ不可侵条約を締結したので、日本もソ連と条約を締結。そこまではよかったが、ドイツが、勝手にいきなりソ連侵攻を開始してしまう。ここから松岡外相の構想は狂っていきます。米英と対決することが構想にありました。そして東条英機の対米開戦論に押し切られていきます。ソ連のスターリンの構想は、日中戦争、日米開戦を実現することだったのです。そのことは松岡は予想していなかったのです。そもそもドイツは、日中戦争で中国支援を行い、反日的な国家でした。日本にとって、ドイツが米英の敵であったことだけで、日本の同盟国にしたのです。また、イタリアは第1次大戦中に、見方が不利になると敵側に寝返っています。日独伊三国同盟のイタリアの裏切りは、予想が出来たはずです。第2次大戦でも、戦況が不利になると、イタリアは連合国側に寝返り、日本に対して宣戦布告しているのです。松岡外相の戦略ミス。近衛文麿は外交の素人で外交を松岡に任せた。東條英機が陸軍大臣として陸軍が推薦してくることで、対米開戦を主張する。近衛文麿は東条英機との対立を強め、自ら総理を辞任する。<痛恨の失態>木戸幸一が東条英機を総理に推薦したことは、大失敗でありました。戦後になって本人が失敗を認めています。昭和天皇はリスクを承知で内大臣の木戸幸一の推薦を引き受けた。ココで日米開戦になります。日中戦争の最中、中国国民党を支援していたのはドイツでした日独伊三国同盟を結ぶ事により、国民党支援を打ち切り一気に中国問題を解決する目論見だったのです。しかし直後、アメリカが国民党にすり寄った為、益々解決は困難に成りました。拠ってメリットよりデメリットの方が遥かに多くなりました。一部で兵器関係の技術交流があったぐらいで、ほとんど役に立たなかった。日独間が遠すぎた。松岡洋祐はソ連を加えて四国同盟を構想し、日ソ中立条約までこぎつけたが、独ソ戦開始で水泡に帰した。さらに三国同盟は後のソ連の対日参戦に寄与することになった。ソ連としては自国領土を侵略し虐殺したドイツと同盟を結んでいる日本は同じく敵だという口実を与えてしまった。よく「中立条約を破ったソ連は汚い」というが、同盟国ドイツの蛮行に対する復讐から日本にも牙をむいてくることぐらいわかりそうなのに。むしろ日本政府の国際感覚の無さの方が問題。


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